知られざる世界、ラテンアメリカとカリブ海の国々 前編

【地球を旅するピースボートスタッフがみる「世界」】地球の裏側で紡がれる軌跡

【地球を旅するピースボートスタッフがみる「世界」】シリーズ

「地球一周の船旅」を出し続けることで地球を楽しみ、世界中の人々と出会い、文化・歴史を学び、紛争・環境・人権問題などグローバルな課題に取り組むピースボートスタッフが、ごく個人的な視点と興味でつづります。

ピースボートスタッフの野々村修平です。このシリーズは月に1回のペースで連載していますが、今回はラテンアメリカ(以下、ラ米と省略)及びカリブ諸国にフォーカスしてお話をしようかなと思います。前提として観光地やお土産情報というよりかは、実地で経験したからこそ身についた知識を個人的に書いていきます。

ではまず、ラ米と聞いて思い浮かぶ国はどこでしょうか?

「日本から見た地球の裏側はブラジル」は正しいのか?

日本から見た地球の裏側といえば、ブラジルと答える人が圧倒数でしょう。「これは正しいのか?」 私が高校生くらいの時にふと感じた疑問でした。地球が丸いことは周知の事実ですが、根拠がないなと。

東京は、北緯35度41分・東経139度45分に位置しています。その裏側にあたる地点は南緯35度41分・西経40度15分。そもそもこれだけの情報では場所は特定しにくいですよね。簡単に言うなれば、ウルグアイから東に約1,000km離れた大西洋の洋上がちょうど日本の裏側にあたります。そう日本の裏側はブラジルではありません。

世間一般的に正しいと思っていた事実が異なること、世の中にはたくさんあります。だからこそ情報を見極める力が重要であることが理解できます。私の書いた文章がすべて正しいわけでもありません。自身の体験と信憑性のある情報を注視する努力は怠っていませんが、完璧にはできないものですよね。

どうぞこの【地球を旅するピースボートスタッフがみる「世界」】シリーズは知識を掴み取る初歩段階と思って寛容的に読んで頂けたら幸いです。

日本から見ると「遠い世界」それがラ米

「地球の裏側はブラジルだ!」と勘違いされる理由を個人的な考察から述べます。過去、ブラジルに出稼ぎのために移民する日本人が多かったことはご存知の方も多いかもしれません。ラ米と日本はおよそ150年以上も前から国同士の繋がりがあります。そして200万人以上の日本からの移民の子孫が今もなおブラジルに暮らしています。ブラジルの人口は2億人程度なので、そのうちの200万人は日系人。つまり全人口に対し1%は日本にルーツを持っているということですね。

時は遡ること約100年前、当時の移動手段は飛行機ではなく船でした。1908年に笠戸丸が神戸港を出航しブラジルへの帆を切ります。私も昨年、船で日本を出発して太平洋を横断しラ米まで行きましたが、とにかく遠いと思うほかありません。期間で表すと1ヶ月弱程度の道のりでしょうか。ましてや当時の船と今の客船の規模やスピードを考えると、航海が如何に大変であったかということは想像に難くありません。

そのため意識の中で日本からとてつもなく離れている国=地球の裏側と表現されるようになったのではないでしょうか?確証は一切ありませんが、私はこのような見解を持っています。

私は物事を思考する際、まず仮説を立てて自分なりの見解を持つことを心がけています。正しいか正しくないのかはさて置き、自分の経験と学びの中から解を導き出すことを習慣にしています。

真面目な話をしたところで、これは完全な余談です。ブラジルと日本の繋がりとして興味深いものがあります。それはコーヒーです。私はコーヒーが大好きで、特にラ米で飲めるそれは別格だと思っています。様々な種類があるので一概には言えませんが、ラ米のコーヒーは強いコクの中にほのかにバニラのような甘い香りがすることが特徴です。

ブラジルにはセラードというサバンナ地帯があります。サバンナ、いわゆる亜熱帯地方の草原ゆえ、ここではほとんどの作物が育ちません。1970年代、この地の開発に着手したのが日本でした。作物の栽培技術指導もさることながら、肥沃な農地開拓を施したんです。その結果、今ではブラジルは世界一のコーヒー原産国となりました。実はその多くがセラード産です。

ぜひラ米に行った際は本場のコーヒーを召し上がってくださいね。個人的なお勧めは、中米グアテマラのアンティグア産コーヒーです。高地で熟成された豆を焙煎して作り上げたコーヒーは至極の一品に他なりません。

<グアテマラの国旗>

世界最後の秘境

では次にラ米の魅力として、壮大な大自然を挙げたいと思います。私は世界中を巡ってきた根っからの旅人ですが、その中でもベネズエラとブラジル、ガイアナなどに広がる高地帯「ギアナ高地」が、人生の中で最も息を飲む絶景だったと記憶しています。もはやここを超える景色が存在するのかさえ定かではありません。

ギアナ高地は、ほとんどの地域が未開拓です。そのため世界最後の秘境と呼ばれています。眼前に広がるテーブルマウンテンには、富士山を有に越える山が連なり、その山の頂には下界と隔離された未開拓地帯が広がっています。それ故ここにしか生息しない固有種の植物が数多く見られます。

<テーブルマウンテン>
<テーブルマウンテンの山の頂>

「ギアナ」とは水の国という意味です。その名の通り滝や川が点在しているのも特徴のひとつ。最も大きいテーブルマウンテン「アウヤンテプイ」から流れる979mの落差を誇るエンジェルホールが圧巻の迫力を醸し出します。米国人のエンジェルさんが発見したことからこの名前が付けられました。

<エンジェルホール>

全長が長すぎるため、途中すべての水が空気中で水蒸気に変わってしまいます。つまり滝下まで水が到達しないので滝壺が存在しません。滝の水しぶきが空気にたなびき虹をつくる様は、まさに神秘です。

もちろん日本でも数ある世界遺産や規模の大きな景色を眺めることができますが、私は日本で見た息を飲む絶景と言われてもパッと思い当たる情景が出てきません。それだけ、世の中にはまだ見ぬ世界が広がっているということですよね。

普段、私たちはとてつもなく小さな世界に生きています。もはや自身の価値観を広げる為には海外へ行くことは必須だと思います。だって東京タワー3個分の滝ですよ!自分が地面からその滝を眺める姿、想像できますか?

遠い国で活躍する日本人

では次に異国で活躍する日本人に焦点を当てていきます。私は最近感銘を受けた記事と出会いました。要は新型コロナウイルスが蔓延する中で「諦めない」を貫いた邦人の力が強く描写されている内容です。遠く離れた異国の地で日本人が活躍する報道を見るたびに誇らしい気持ちが生まれます。

片山慈英士(カタヤマジェシー)さん。名前だけを聞いてピンとくる方は少ないかと思いますが、今回は彼が主人公です。舞台はラ米西部の天空都市を有する国、ペルー共和国です。

世界遺産を独り占め?

片山さんは3月15日にペルーのマチュピチュを観光するためにペルーのクスコを訪れます。マチュピチュといえば、アンデス山脈に位置する世界で最も高度にある世界遺産。その高さ2,430m。世界中から絶えず観光客でにぎわうインカ帝国の遺跡です。

片山さんは当時世界一周に挑戦している真っ只中だったようです。昨年7月に留学先のオーストラリアを出発し8ヶ月後、27ヵ国目の訪問先となるペルーで、マチュピチュ村に足を運びました。ご存知ない方が多いと思いますが、マチュピチュ村は通称です。アグアス・カリエンテス(Aguas Calientes)が正しい村の名前です。

<コロナ禍前は多くの観光客が訪れていた>

しかし村に入った翌日、ペルー全体にロックダウンの勧告が下されます。ペルー政府が新型コロナウイルス感染拡大を受けて緊急事態宣言を発令した当日で、片山さんは多くの観光客とともに遺跡の訪問を認められませんでした。そのため10月10日までマチュピチュ村で200日間の足止めをくらいます。

政府から帰国用のチャーター機が用意されましたが、搭乗費用があまりにも高く帰国を断念せざるを得ませんでした。それもそのはず、2週間程度耐え忍べば、元通りになるだろうと踏んでいたからです。しかし事態は一向に収束の余地を見せません。いつしか彼以外の観光客はマチュピチュの訪問を諦め、この地に残る最後の旅人になってしまったそうです。

マチュピチュの生活では、ボクシングコーチの資格を駆使して宿泊先のオーナーやその家族、近所の子どもたちにボクシングを教えながら村民との交流を深めていきます。私は彼のインタビュー動画しか見ていないので、彼の心情のすべてを理解することはできませんが、その動画に映る子どもたちや村民の方々の笑顔から、どれだけ片山さんが大きなものを村に残したのかを感じることができます。

また資格の勉強にも取り組み、フードスペシャリストやトレーニングサポーター、筋トレインストラクター、ヨガインストラクターを新たに取得。それらの資格を活用しながら更に村民たちとの交流のきっかけにしていきます。きっとこのように努力する姿から信頼が生まれたのではないでしょうか。

気が付けば200日が経過。一向に観光の再開が見込めない状況に対し彼はある決断をします。それが日本に帰国すること。帰国1週間前のある日、早朝の日課のランニングをしていると偶然街の様子を取材しに来た新聞記者と出会います。記者は、彼をマチュピチュ最後の観光客としてネットに掲載。すると彼の周囲にいたペルー人がSNSを通じて記事を拡散させました。また彼と交流した村民を中心に、帰国前にマチュピチュを見せてあげたいという想いから、マチュピチュの特別見学許可を求める署名が集められました。

結果、それらの声がペルーの文化大臣にまで届きます。村役場に呼ばれた彼に告げられたこと、それは「君のためにマチュピチュの見学を許可する」ということでした。つまりたった1人の邦人に対しマチュピチュは開かれました。彼のこの体験は瞬く間に全世界のニュースとなり、大きな反響を呼びます。

そして物語には続きがあります。その後、彼はペルー観光大使に任命されることになります。この「天空都市」独占は、彼が正真正銘、村民たちと心を通わせた結果ではないでしょうか。私を含め全世界の多くの方々に、勇気を与えたはずです。

 

今回はここまでです。次回の後編ではマチュピチュと深いつながりのあるもう一人の日本人と、ラ米に大きな影響を与えた人々をご紹介します。

後編はこちら↓

ピースボート 野々村修平