私の旅を変えた沖縄 ~6/23「慰霊の日」を前に戦争と平和を考える~

こんにちは!ピースボートスタッフの德永涼子(ほたる)です。

関西も梅雨入りし、雨の日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。

個人的には一昨年と昨年は2年とも船に乗っていたので、3年ぶりの梅雨なので心なしか懐かしい感じがしていて、今まで嫌いだった梅雨がなんだか嬉しい感じがしています(笑)。

6月といえば梅雨のイメ―ジがありますが、その他にも…。

今日はその中でも一緒に考えたいことがあるので、それをテーマにブログを書いてみました。

6月23日「沖縄慰霊の日」

太平洋戦争の末期に沖縄で起きた地上戦で、たくさんの命が失われました。

6月23日は、日本軍が沖縄での組織的な戦闘を終えたとされる日で、当時の日本軍司令官・牛島満中将らが自決した日でもあります。

戦後しばらくして、アメリカ統治下だった沖縄では、1961年に「慰霊の日」が公式な休日として制定されました。(最初は6月22日とされていましたが、1965年から現在の6月23日に改められています。)

ただし、6月23日=戦争の完全な終結、というわけではありません。

その後も戦闘は続き、最終的に沖縄戦が“公式に終わった”とされるのは、降伏文書が調印された1945年9月7日。この日を「沖縄市民平和の日」として記憶にとどめている地域もあります。

私がこうした背景を知るようになったのは、自分の旅の中での“出会い”がきっかけでした。

私が旅をする理由

突然ですが…あなたが旅に出る理由はなんですか?

「地球一周をする」「〇〇に行く」と言うと、よく「なぜ旅に出るの?」と聞かれます。

かつての私は、「知らない場所に行って、知らない人と出会って、何かを感じたい」という漠然とした理由で旅に出ていました。でも、旅を重ねる中でその意味が少しずつ変わっていきました。

きっかけは8年前の2017年。当時、ピースボートセンターふくおか でボランティアスタッフとして活動していました。

そこには、沖縄にルーツを持つボランティアスタッフやスタッフたちがいて、彼らとの出会いが初めて「沖縄」が身近になったきっかけです。

<初めて訪れたピースボートセンターふくおかで、地球一周しようと決めた日。当時17歳(写真中央)>

そして翌年2018年にはポスター貼りキャラバン(ピースボートの地球一周ポスターを遠方に貼りに行く合宿)で沖縄を訪れました。

これが私にとって初めての沖縄でした。観光地としての沖縄しか知らなかった私にとって、地元の人の優しさや街の空気はとても新鮮で今でも大切な思い出の一つです。

2度目の沖縄:過去の記憶に触れる旅

その後も何度か沖縄を訪れることになりましたが、特に印象的だったのは、2023年10月、ピースボート地球一周の船旅 Voyage114 を終えて下船した後の再訪です。

このとき私は、チビチリガマとシムクガマ、そして佐喜眞美術館を訪れました。

チビチリガマとシムクガマは、それぞれ異なる歴史を持つガマ(自然の洞窟)で、米軍が上陸した時に住民が身を隠した場所でした。

<犠牲者の死を悼み、永久平和を祈念してチビチリガマ前に建立された「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」>

現地の方が丁寧に案内してくださいました。その案内の最中、頭上を米軍の訓練機が通り過ぎ、騒音が響き渡りました。

地元の方がその音に怒りのこもった表情で空を見上げていた姿が忘れられません。

<ご飯やさんに向かっているときの車窓から見えた訓練機。車内にいても音は大きく聞こえ、この日常になっている景色に恐怖心を抱いた>

その後、普天間基地の近くにあるご飯屋さんで昼食をとりました。

ここでも訓練機の音が100デシベルを超えるような騒音として鳴り響き、スマホが聴覚への影響を知らせる注意喚起を出すほどでした。

その度に会話が止まり、また再開する。その光景を見て、「これが日常なのか」と衝撃を受けました。慣れるということの怖さを、初めて実感した瞬間でした。

佐喜眞美術館には、『原爆の図』でも知られる丸木位里・俊夫妻が描いた「沖縄戦の図」が展示されています。

実はこの「沖縄戦の図」には思い入れがあり…。

というのも、私はこの作品を題材にした劇に出演したことがありました。

第100回ピースボート地球一周の船旅 に参加者として乗船した時、船内で実施された劇に出演しました。

地上戦で負傷し、幽霊のような手をした人々が誰かを探して彷徨っている、その様子を見て葛藤する役だったと思います。

なぜ自分の記憶が曖昧かというと、あまりに生々しい記憶で、思い出したくないような情景が広がるので実際に演じた役は違っているかもしれないからです。そんな役だったように記憶しています。

展示されている「沖縄戦の図」は全部で14部にわたり、沖縄の地上戦の様子を描いた作品の一つひとつには、名もなき人々の命が描かれていました。

目をそらしたくなるような情景。でも、そこには確かに”生きていた”人たちがいたのです。

<佐喜眞美術館の屋上。ここからは奥には沖縄のきれいな海、そして手前には広大な米軍普天間基地が広がる>

私が学生時代に習った戦争の記憶といえば、広島・長崎の原爆、そして終戦。授業では映像を見たり、修学旅行で長崎を訪れた際には直接被爆者の方の証言を聞く機会もありました。

でも、それだけでは見えてこなかったことが、この沖縄での訪問や作品との出会いによって、ようやく立体的になった気がします。

戦争は空襲だけじゃない。地上戦、そしてその後も続く日常の中に、戦争の影は色濃く残っているのだと知りました。

そして終戦一つをとっても本土と沖縄では時差があることも多くの資料で知りました。

どの歴史を切り取っても「●年●月●日」に綺麗に消え去るような現実ではないということを世界を旅して知ることが多く、そこにはその当時を生きる人の記憶がありました。

この訪問のもう一つの目的は、地元のラジオ番組への出演でした。クルーズの参加者の方がパーソナリティをされている番組で、そこで若者の声を届けたいとお誘いいただきました。

この方と一緒に行ったアウシュヴィッツ強制収容所を訪れるツアーのこと、船内で実施した沖縄慰霊の日関連のイベントで交わされた言葉、そしてこの間沖縄を旅して感じたことなどを思いのままに話しました。気づけば、あっという間に時間が過ぎていました。

興味のある方は、ラジオのアーカイブもあるので、声をかけてくださいね。(恥ずかしいですが共有します…笑)

この時期の経験を通して、自分の中の「6月」の意味が大きく変わりました。

以前はジェンダー月間として、自分のセクシュアリティや多様性について向き合う時間でしたが、Voyage114で沖縄慰霊の日に関するイベントに関わってからは、沖縄、そして住んでいる日本全体について考える時間へと変化しました。

読谷村観光協会:チビチリガマ・シムクガマ
佐喜眞美術館

3度目の沖縄:今の沖縄を生きる人、そして子どもたちから学ぶ旅

そして2025年5月、私は那覇で行われるピースボートの説明会に参加するため、再び沖縄を訪れました。この機会に休日を利用して、友人に会ったり、学びの時間を過ごすことにしました。

<友人の勧めで食べに行った沖縄そば。これが食べたくて沖縄に行くといっても過言ではないほど大好きなんです>

初日はアメリカンビレッジやビーチを訪れました。夕日を眺めていると、空港の方向ではない方に飛ぶ飛行機を見かけました。友人によると、それは基地に向かう米軍の飛行機でした。

美しい景色の中に、当たり前のように存在する飛行機の影。どれだけの人がその存在に気づいていたのでしょうか。

友人は、これまで基地の存在を気にしていなかったけれど、自宅近くで軍事訓練が行われるようになって初めてその騒音被害を体感したそうです。

それはニュースで見聞きしていたよりもずっとリアルで、自分の生活に影響が出て初めて「これはおかしい」と感じたと話してくれました。

その話を聞いて、沖縄の中でも関心の温度差があることを痛感しました。投票率や統計だけでは見えてこない、一人ひとりの言葉や思いに耳を傾けることの大切さを学びました。

<かつてピースボートセンターふくおかでお世話になったスタッフとの再会ランチ。これまでと今後についてアツい話をし、気づいたら3人とも涙目になっていました(笑)>

2日目の夜は、国際通りの裏にある飲み屋さんへ。説明会でお手伝いしてくれていた過去乗船者の方とも一緒にいろんな話をしました。

彼女に思い切って基地についてどう思っているか尋ねたところ、「正直、無関心なんです」と話してくれました。

彼女のように地元を愛していても、地域の問題に興味を持てないことはあります。周りとの違いにコンプレックスを感じてしまう人もいます。

でも、そのことを正直に話してくれた彼女の人柄が素敵だと思いましたし、そういう話題を避けずに聞けた自分の変化にも気づくことができました。

最終日は首里城と対馬丸記念館へ。

首里城は火災からの復興中で、多くの人が訪れていました。人々にとっての心の拠り所であり、誇りの象徴である首里城が再びよみがえり、また訪れることができるようになるのが楽しみです。

<対馬丸記念館は対馬丸をイメージして設計されており、屋上までの高さが約10メートルで、ちょうど海面から甲板までと同じ高さを表しているのだそう>

対馬丸記念館では、多くの子どもたちのメッセージに胸を打たれました。

対馬丸記念館は、太平洋戦争末期に、疎開する学童たちを乗せていた船「対馬丸」が米軍に撃沈された悲劇を後世に伝えるための施設です。

多くの子どもたちが犠牲になった事実を語り継ぎ、平和の尊さを訴え続けています。

対馬丸の子どもたちから、今を生きる子どもたちへ平和のバトンを渡すことを意識した展示が印象的でした。

そして最後には、記念館で学び、そのバトンを受け取った子どもたちのメッセージも展示されていました。

「こわいから平和にしてください」「せんそうをしない」「サッカー選手になりたい」「試験に合格して看護師になる」……それぞれの願いが、未来に向けられていました。

今、身近な範囲に限るかもしれませんが、当たり前に語れる”将来の夢”。でもそれは、対馬丸に乗っていた子どもたちには叶えられなかったもの。

私たちは今、「未来」を語れる最後の世代になるかもしれません。その可能性を手放さないために、夢や希望を持ち続けられる社会を築く責任があると感じました。

同時に大人になるということの責任の大きさを痛感しました。

対馬丸記念会

「沖縄慰霊の日」から始めよう:あなたと私の平和への旅

<沖縄に着陸する前の飛行機からの景色>

6月23日が、これまでただの日常の1日だった人も、今年から一緒に考える日に、週間に、そして月間にしていきませんか。

まずは本を読んだり、映画を観たり、何かを「知る」ことからでいいと思います。

そしてもう一歩踏み込んで私にできることは、今の社会をより良いものに変えていくことです。

個人でできることには限りがあっても、平和な社会の骨組みとなる仕組みを変えていける人=政治家を選ぶ権利は私の手にあります。

だからこそ、今年7月の選挙に向けて、知り、感じ、好きになったものたちの未来を守るために、絶望ではなく希望を選んでいきたいと思います。

最後にもう一度考えてみてください。

あなたが旅に出る理由は、なんですか?

私は、自分の目で見て、肌で触れ、人々と出会うことの積み重ねの先に、旅の意味があると思っています。

だからこれからも色んな所へ行き、たくさんの人と出会いたいと思います。

出逢った人の数だけの真実を知り、考え続ける人でいつづけたいから。

 

ピースボートセンターおおさか 德永涼子