歴史を学ぶことで旅はより楽しくなる

地球一周に出る前だからこそ、より感動できる旅の予習をしませんか?

こんにちは!ピースボートスタッフの田中麻衣花です。実は私のスタッフ紹介の記事はまだ出ていないので、ここで初めましての方もいらっしゃるかと思います。今度このブログに掲載するので、よかったらご覧いただけたら嬉しいです♪

<イースター島トンガリキのモアイ>

私が今回ご紹介したいのは、歴史を学んでから地球一周することです!

歴史を知ってから旅をする意味

<地中海の中央に浮かぶマルタ島の要塞都市バレッタ>

皆さんは歴史が好きですか?私は、歴史を学んでから、実際に自分の目でその物や歴史的建造物を見ることが好きです。歴史という様々なバックグラウンドを知ってから、それを目の当たりにすると、感動がさらに増します。

歴史はロマンです。昔の人が何を思い、どのように生きていたのかを知ると、現在の自分がこうして生きていることが素晴らしいなと感じるし、歴史という軌跡が尊いものだと感じます。ぜひ皆さんを、もっと歴史のロマンの虜にできれば……と思っています。

今回は、世界三大運河の1つであるスエズ運河と、天空の要塞都市インカ帝国のマチュピチュの歴史についての歴史をご紹介します!

スエズ運河

スエズ運河は、パナマ運河(パナマ)・キール運河(ドイツ)とあわせて、世界三大運河とよばれています。

ピースボートのクルーズでもスエズ運河が航路に含まれることが多いですが、船旅だからこそ体験できることだと思います。私も101回クルーズ乗船時にスエズ運河を通航しましたが、広大な土地と海が広がった中を船が走っていく光景は圧巻でした。

スエズ運河は、地中海と紅海を結び、アジアとヨーロッパの距離を短縮する運河です。フランスの外交官フェルディナン・ド・レセップスが国際スエズ運河会社を設立し、エジプトとフランスの株を引き受け、1859年に着工、10年の期間を経て完成しました。

1875年、エジプトは国際スエズ運河会社の財政困難が理由で、株式を売却することを決めます。これを見たイギリスのディズレーリ首相は、ロスチャイルド家(ヨーロッパ最大のユダヤ系国際金融一族)に支援を申し入れ、全株の44%を獲得し、会社の支配権を握ります。

これ以降、スエズ運河の収益は株主であるイギリスに吸い取られ、エジプト政権は財政が破綻、外国の管理下におかれるようになります。このイギリスによるスエズ運河会社の株式買収は、帝国主義政策への転換だと言われています。

1881年、イギリスのエジプト支配に抵抗して武装蜂起をした、ウラービーの反乱がおこります。軍人ウラービーが「エジプト人のためのエジプト」を掲げたエジプト民族運動です。しかし、イギリス軍に鎮圧され、エジプトは事実上イギリスの保護国となってしまいます。この事実上の保護国化は、1953年まで続くこととなりました。

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1953年、前年に起こったエジプト革命によって、イギリスはエジプトの独立を正式に認め、イギリス軍をスエズ運河地帯から撤退させます。1956年、エジプトのナセル大統領はエジプトの近代化をはかるためナイル川中流にアスワン:ハイダムの建設を試みます。しかし、ナセル大統領がソ連の接近を図ると、イギリス・アメリカ両国は建設資金援助を撤回。これによって、ナセル大統領は、ダム建設資金確保のためにスエズ運河の国有化を宣言しました。

それに猛反対したのがイギリス。イギリスは、イスラエル・フランスと共にエジプトに侵攻。これをスエズ戦争、または、第二次中東戦争といいます。結果としては、アメリカ・ソ連が3カ国に撤退を求め、国連も即時停戦を決議するなど、国際世論の非難ですぐに停戦となりました。

これによって、ナセル大統領はアラブ民族主義の指導者として威信を高めていくことになりました。こうして第三次中東戦争へと続いていくこととなります。

アジアとヨーロッパを繋ぐ、世界の要素であるがために、数々の国際紛争の火種となったスエズ運河。皆さんもスエズ運河を航行する際に、そういった歴史に思いを馳せながら眺めて見てはいかがでしょうか?

知っているのと知らないので、実際に目にした時の感動がきっと変わってくるはずです。

インカ帝国(マチュピチュ )

ピースボートでも大人気の寄港地ペルーのマチュピチュは、年間150万人の観光客が訪れる大人気の観光地です。標高2,400メートル以上の山に建設されたインカ帝国の遺跡です。インカ帝国は、15世紀半ばに、クスコを中心に現在のコロンビアからチリの広大な領域を支配していました。

インカの文明は、石造建築の技術に優れ、灌漑施設(農地に必要な水を人工的に供給・分配する農業)を利用した農業を行っていました。また、文字は持ちませんが、縄の結び方で情報を伝えるキープ(結縄)によって記録を残したとされています。かなり高度な文明ですね。

インカ帝国では、「太陽」が非常に大きな意味を持っています。そもそも、インカとは「太陽の子」という意味を指します。また、ここでは太陽の崇拝が行われ、国王(インカ)は太陽の化身とされていました。このように、宗教と政治が「太陽」という点で一体化していたのです。

マチュピチュ遺跡は、国王の離宮遺跡ではないかという説がありますが、かなり謎が多いままのようです。

インカ帝国をはじめとする、南北アメリカ文明は金・銀・青銅器を持っていましたが、鉄器を用いておらず、車輪や馬も利用されていなかったそうです。どうしてそんなインカ帝国が、マチュピチュ遺跡のような石像建築をつくることができたのでしょうか。謎が私たちの探究心をくすぐりますね。

そんなインカ帝国の繁栄と同時期に、ヨーロッパでは大航海時代を迎えていました。16世紀、スペイン出身の航海者クリストファー・コロンブスが南北アメリカ大陸を「発見」し、スペインの植民地となります。(ただしブラジルだけは例外で、ポルトガルの植民地となりました)

スペイン王室は、すでに先住民族による諸国家が形成されているにも関わらず、コンキスタドール(元々はスペイン語で征服者の意味。アメリカ大陸を滅ぼしたスペイン人冒険者を指す)を南北アメリカ大陸に送りこみます。1533年、インカ帝国もスペインの軍人フランシスコ・ピサロによって滅ぼされてしまいました。

スペインは、先住民の保護とキリスト教化を条件として、スペイン人植民者に支配を委託するというエンコミエンダ制を採用しました。こうして支配下においた先住民インディオたちを、スペイン人植民者は鉱山・農園などで強制労働で酷使・虐待します。また、彼らがもたらした伝染病などもあり、先住民の人口は激減してしまいました。

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このように、素晴らしい文明であったインカ帝国は、ヨーロッパ人による大航海時代により、多くの先住民族の命やその文明、誇りまでもが失われてしまったのです。スペイン語が、中国語・英語に次いで世界で3番目に多く話されている理由もここに関わってきます。

マチュピチュ遺跡は、1911年にアメリカの歴史学者によって「発見」されます。かなり標高の高い場所にあったため、スペイン軍に見つかることもなくそのままの状態で約400年放置されたため、インカ帝国の都市構造を残す貴重な遺跡として世界遺産に登録されました。

ぜひ皆さんも、マチュピチュ遺跡を訪れた際は、インカ帝国の繁栄や謎、その後のスペイン領となった歴史も思い出してみてください。

地球一周をより感動するものに!

<スペインの古都グラナダにあるアルハンブラ宮殿>

いかがでしたか?もっともっと気になってきましたか(笑)?今回は2つしかご紹介できませんでしたが、ぜひ皆さんも歴史を知って、実際に訪れた際により感動した旅にしてみてくださいね!

 

ピースボートスタッフ 田中麻衣花