映えるだけじゃない沖縄~希望のある未来のために戦争を知る~

みなさんこんにちは!ピースボートセンターおおさかのゆりゆりです。

少し前になりますが、沖縄へ行く機会がありました。今回は「映えるだけじゃない沖縄」と題して、沖縄旅のレポートをしたいと思います。

戦争の舞台となった沖縄

さてみなさん、「沖縄」と聞いてどんなイメージを思い浮かべますか?

広大なビーチや珊瑚礁の美しい海、首里城などの世界遺産の数々、ジンベエザメとマンタがいる沖縄美ら海水族館、本州では見られない大自然の絶景…。

日本屈指の観光地として知られる沖縄ですが、第二次世界大戦において、沖縄では住民を巻き込んだ大規模な地上戦(沖縄戦)がおこなわれたことをご存知でしょうか。

沖縄戦は1945年3月下旬から7月2日の米軍の作戦終了まで続きました。この戦いで、多くの兵士が戦死しました。さらに、一般の住民が戦闘に巻き込まれ、貴い命を失いました。一般住民の犠牲者数が、戦死した兵士の数を大きく上回ることが沖縄戦の特徴です。

実際に亡くなられた方の数は、沖縄県国保・援護課によれば、沖縄県出身軍人軍属2万8,228人、他都道府県出身兵6万5,908人、一般県民(推計)9万4,000人、アメリカ軍側が1万2,281人(米国公刊戦史による)にのぼったとのことです。

沖縄の人々は、もちろん戦争を望んだわけではありませんでした。しかし、「本土防衛」を目的に日本軍の基地や陣地が沖縄本島や離島に建設されました。

日本軍の戦争準備には多くの県民が駆り出されました。そこへ米軍が上陸し、戦場となってしまったのです。

なぜ、沖縄が激しい戦争の舞台とならなければならなかったのか。その結果、どのような悲しい出来事が起きてしまったのでしょうか。今回の旅では、そんな沖縄戦について考えさせられる場所を訪問しました。

実は今回の沖縄訪問は私にとって4回目でした。1回目は中学の修学旅行で訪れました。その際は平和学習として訪問した為、ひめゆりの塔を訪れたり、ガマを訪れたり、沖縄戦の生還者の方のお話しを聞く機会がありました。

その為、沖縄戦のことは知っていました。しかし、中学生の時の訪問から約10年経過し、その間沖縄に実際にルーツを持つ人の話を聞く機会や想いに触れる機会が多くありました。

ピースボートの旅を通じて、沖縄出身の友人もたくさんできました。また世界を訪れる中やスタッフとして過ごす中で、沖縄とは違った側面から「平和」について考える、向き合う機会が多くありました。

今回の旅では、10年前に訪れた時とは大きく違った学びを得ることができ、感じることがあった為、みなさんに共有できればと思います。

この記事が少しでも、みなさんの知るきっかけに繋がれば嬉しく思います。

対馬丸記念館

米軍の攻撃により沈没した学童疎開の船

ある一隻の船、『対馬丸』という船をみなさんは聞いたことありますか?

沖縄に到着して、まず対馬丸記念館という場所を訪問しました。船旅を行うピースボートスタッフとしては、とても他人事とは思えない、船旅中に悲劇が起きてしまいます。

1944年8月22日、対馬丸は政府命令による学童疎開輸送中に、那覇市若狭でアメリカの潜水艇の攻撃を受け、沈没してしまい多くの犠牲者を出しました。これは対馬丸事件とよばれています。

<対馬丸事件の生存者が描いた絵。『対馬丸(絶叫)』久高将吉画>

対馬丸記念館は、対馬丸事件の犠牲者の鎮魂と、子どもたちに平和と命の尊さを教え、事件を正しく後世へ伝える為に対馬丸撃沈から60年目に沖縄県那覇市に開館しました。

戦争が奪った子どもたちの夢

対馬丸記念館では、犠牲になってしまった方の写真や遺品が展示されていました。

また生存者の方が、当時の記憶を絵におこした紙芝居での動画も上映されており、私自身対馬丸事件についての知識はほぼありませんでしたが、とてもわかりやすい内容となっており、当時の様子がリアルに情景として浮かんできました。

<当時の小学校の教室が再現されている>

対馬丸事件の背景としては、当時沖縄で上陸戦が行われると示唆される中、沖縄では子どもたちを本土へ疎開させる動きが進んだことが要因です。

子どもたちは「本土に行ったら雪が見られる。汽車に乗れる」と遠足気分でしたが、保護者は沖縄周辺で多数の船がアメリカ軍の攻撃で沈没していたことを知っており、危険を冒して海を渡ることに難色を示していたそうです。

教師たちは「自分たちが引率するから」「本土に行けばしっかり勉強ができる」と説得し、800人ほどの児童が対馬丸に乗船したそうです。

<子どもたちが使っていた教科書やおもちゃなどの展示品から、そのころの生活を想像する>

対馬丸事件は数多くの子どもたちが犠牲になったことで知られています。夢や希望を抱いた子どもたちの多くの命が失われてしまったということで、本当にショックで、戦争というのものの悲惨さを改めて感じさせられました。

対馬丸の生存率は学童7%、一般(疎開者)14%、軍人48%、船員72%と言われているそうです。なんとか生き延びた方の漂流中のエピソードも聞いていて苦しくなるものばかりでした。

対馬丸事件の生存者が背負ったもの

対馬丸の沈没は警察や憲兵によって箝口令がしかれました。沖縄に戻った生存者は、対馬丸に乗った子どもの家族から「うちの子はどうしたんだ」と尋ねられても答えられなかったそうです。

この箝口令によって、対馬丸の生存者の方は第2の苦しみを生涯背負うこととなります。「自分はなぜ助かってしまったのか」と、生き残ってしまったことに対して苦しんだ生存者の方の苦悩を聞いて、胸が張り裂けそうでした。

その中でも特に印象的だったのは、当時、教師として児童を引率していて生き残った方は、自分が生き残ってしまったことを許すことが出来ず、その苦しみを他者に話すことともできず、自害してしまったというエピソードを聞き、とても苦しかったです。

<対馬丸記念館で学んだ子どもたちがつくった新聞や折り鶴>

対馬丸記念館では、対馬丸事件を経て、どんなことを考えるのか、何を感じたのかを、作文や絵で表現しているスペースがあり、沖縄の地元の子どもたちや、修学旅行で訪れた子どもたちの作品が数多くあり、それをみて色々な感情が込み上げてきました。

悲しみや憎しみを「希望」に変えるために

<記念館の近くにある対馬丸事件の犠牲者を祀った「小桜の塔」>

改めて、知ることの大切さを感じました。第二次世界大戦の終戦から76年が経ち、当時の戦争を体験し、それを伝える方は少なくなってきています。

このまま歴史を風化させてはいけないという強い想いから、対馬丸記念館は建設されたそうですが、私自身も含め、こんなにも尊い幼い命がなくなった事件は、あまり世に知られてないのではないかと思いました。

実際に対馬丸記念館を訪れてみて、生存者の方の話を映像越しですが、聞いてみることで、感じられたこの感覚を忘れないようにしたいと思いました。

最後にとても心に突き刺さった対馬丸記念館の理念の全文をご紹介したいと思います。

私たちは考えました
いま「対馬丸」を語ること、それは何でしょう?
戦争のこと?それとも平和?
本当に語って欲しいこと、それはいまそこにある
それぞれの「 夢ゆめ 」のことです

暗くつらい戦時でも「夢」は持っていました
でも、生きていればこその「夢」
犠牲になった彼らの無くしてしまった「夢」
彼らが持っていたであろう未来への「夢」
その「夢の未来」に私たちは生きています

この館に身をおいたら、感じてみて下さい
そして、考えてみて下さい
この館には犠牲者の数と比較して
遺品など、「物」があまりありません
どうしてでしょう?

あまりにも長い時間がたったから?
思い出を残そうとしなかったから?

沖縄戦では、多くが焼かれ破壊しつくされました
形あるものは失われました
しかし、人々の「想い」は 決して失われません

人々の「想い」、それは平和への強い「希望」です
戦争を語るとき、悲しみと憎しみが生まれます
悲しみの大きさを、「希望」にかえる努力をしないと
憎しみが報復の連鎖をよびます
しかし、報復の連鎖で悲しみは癒されるでしょうか?

いま「対馬丸」を語ること、それはなんでしょう?

いまも世界では報復の連鎖が
子どもたちから新たな夢と希望を奪っています
この報復の連鎖を断ち切る努力を一人ひとりがすること
これこそが、対馬丸の子どもたちから指し示された
私たちへの「課題」ではないでしょうか

2004年8月22日 対馬丸記念会

対馬丸記念館 いま「対馬丸」を語ること -理念-

佐喜眞美術館

芸術を通して沖縄の戦争を知る

続いて訪れたのは佐喜眞美術館です。

こちらの美術館は、米軍の普天間基地のすぐそばにある美術館で、屋上からは基地の様子を見渡すこともできます。こちらの美術館の建物は、館長である佐喜眞道夫氏が先祖代々の地に建設しました。

<中央が普天間基地で、赤い丸が佐喜眞美術館>

屋上へと続く階段は、手前が6段、奥が23段となっていて、6月23日の沖縄慰霊の日の追悼の意味が込められているそうです。

また建物は、独特なコンクリート打ち放しの構造をしていますが、なんと6月23日「慰霊の日」の日没にあわせて、最上階の窓から太陽の光が差し込む構造になっているそうです。

沖縄戦の図

こちらの美術館には丸木位里・俊が描いた『沖縄戦の図』が展示されています。ぜひ美術館に訪れた際は、こちらの図について美術館の方に説明してもらうことをオススメします。

『沖縄戦の図』は、沖縄の人びとが丸木夫妻の前で証言をし、モデルになり、沖縄の「現場」で描いたことが特徴としてあげられます。

地上戦を知らない私たちは沖縄の人たちから学ばなければならない、と夫妻は慶良間諸島、沖縄島、久米島、伊江島とそれぞれの現場と人びとを精力的に訪ね歩きました。

「沖縄はどう考えても今度の戦争で一番大変なことがおこっとる。原爆をかき、南京大虐殺をかき、アウシュビッツをかいたが、沖縄を描くことが一番戦争を描いたことになる」(位里)

「これは私達と沖縄の人たちとの共同制作です」「戦争というものを、簡単に考えてはいけないのです。日本が負けた、アメリカが勝ったということではなく、一番大事なことがかくされて来た、このことを知り深く掘り下げて考えていかなければなりません」(俊)

鎮魂の集大成《沖縄戦の図》

『沖縄戦の図』には、丸木夫妻の「人間といのち」への深い鎮魂と地上戦を生き延びた人びとの、どんなことがあっても生きなさい、という「命どぅ宝(ヌチドゥタカラ、命こそ宝)」への決意が込められているそうです。

私がこの絵をみていてとても印象的だったことは、ほとんどの住民には瞳が描かれていないことです。

沖縄戦のように死の極限まで追いつめられた人間は、恐怖や怒りや痛みを感じるだけでなく、精神を保つために感情をマヒさせていく。目の前で行われていること、自分が行っていることが現実の様に思えなかったのではないかというお話しを伺いました。

また、多くの証言の中に、位里は真実をみることを回避した空白の瞳を見たために瞳をあえて描かなかったのではないかというエピソードがとても印象的でした。

ただ、その中にも『沖縄戦の図』の中央には、瞳を持つ三人の子どもが描かれていることに、少しだけ救われた気がしました。丸木夫妻は、何ものにもとらわれず、真実を見通す子どもたちの瞳に未来への希望を託したのではないかといわれています。

ぜひ、みなさんにも直接訪れて『沖縄戦の図』をみていただきたいと思います。

2022年1月17日(月)までは『沖縄戦の図』全14部作が展示されています。コロナが収まったら訪れてみてください。(それ以降も常設展で一部が公開されています。)

普通の生活の中にある米軍基地

美術館のエントランスにあった紅型の衣装と薔薇も印象に残っています。

こちらの衣装ですが照屋勇賢の『結い, You-I』という作品で、一見すると美しいデザインの着物ですが、実はよく見ると、沖縄の海をジュゴンが、空を米軍の戦闘機やパラシュート兵、さらに菊の花や色鮮やかな鳥が舞っている様子をみることができます。

普通の生活のなかに米軍基地がある、沖縄の置かれている複雑な環境を表している作品ということで、とても印象的でした。

また薔薇は私の出身地、広島県福山市の中学校から寄贈されたもので、なんだか親近感が湧きました。毎年佐喜眞美術館に修学旅行で訪れる中学校の生徒が、環境問題と平和への祈りを込めてアルミ缶から手作りしたものです。

かつての激戦地・嘉数高台公園

米軍基地を見渡すことのできる沖縄県宜野湾市の嘉数(かかず)高台公園も訪ねました。米軍と激戦を繰り広げた地ということで、兵士が立てこもったトーチカには生々しい弾痕も残っていました。

<コンクリートでおおわれたトーチカ。銃痕が無数に残っている>

日本の敗戦後、アメリカ軍が沖縄を占領し、27年間もアメリカの統治下におかれます。日本軍がつくった基地はアメリカ軍のものとなり、その後、基地を拡大していきます。

日本軍の「基地の島」だった沖縄が、今度はアメリカ軍の「基地の島」となるのです。沖縄は1972年、日本に返還されますが、広大な基地は残されたままです。

<公園にある展望台からは普天間基地が見える>

沖縄の山中、壕や陣地の跡には、住民や日本兵の骨が今も地中に埋もれています。不発弾も時々見つかります。そして、地上戦から生き残った県民は今も心に深い傷を負ったままなのです。沖縄戦の悲しみは今も続いているのです。

小さな一歩が世界を変えていく

私は、対馬丸記念館や佐喜眞美術館を訪れた際に、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所に訪れた時やそこで生還者の方の話を聞いた時、広島の原爆ドームや平和記念館を訪れた時と同じようなメッセージを伝えられたように感じました。

自分の身近な人たちを大切に想う心や、小さな日常の当たり前の幸せを大事にしていくこと。小さな一歩にみえるかもしれないし、一人の人間の力は小さなものだと思いますが、ただその小さな力が世界を変えていくことに繋がっていくのだろうなと思います。

そして夢や希望を持ち、それを自由に語れ、実現することのできるような平和な世の中が実現するように、先人たちは過去の歴史を通して私たちに大切なことを教えてくれてるのだと思います。

 

ピースボートスタッフ 村上佑理