東京2020オリンピック・パラリンピックで盛り上がる今、「平和の祭典」の意味をもう一度考えよう

みなさんこんにちは。ピースボートセンターおおさかの野々村修平です。

今回は、執筆時開催中の「東京2020オリンピック競技大会 」(以下、東京オリンピック)に焦点を当ててブログを書いていきます。

オリンピック選手の功績が讃えられる一方で、環境や難民、ジェンダーやメンタルヘルス等の問題報道も散見されました。SDGsの目標達成がコンセプトに置かれた「平和の祭典」をどのように考えていくのか、私の個人的な考察を展開していきます。

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オリンピック出場を目指した私

<U18(18歳以下)の日本代表選手のころ>

私自身も五輪出場を夢見る一人のアスリートでした。今思い返すとアスリート時代はひたすら自分の弱みを超え、高みを目指すことに明け暮れていました。

ジュニア世代では、陸上競技(110mハードル競技)でオリンピック代表候補選手と言われていました。30年間破られなかった大阪府の記録を塗り替え、当時の歴代最高記録の樹立も経験しています。

<2012年ロンドンオリンピックに出場した市川華菜選手は大学時代のチームメイト>

東京五輪までは競技を継続すると心に誓っていましたが、当時の同期や先輩後輩がロンドンやリオ五輪の内定を獲得する中で、私はそのような結果を残すことができませんでした。

だからこそ自分がなし得なかった「オリンピック」は、引退してもなお、「強く意識させられる大会」だと感じています。

東京オリンピックで私が一番印象に残ったものは、空手形で金メダリストになった喜友名諒選手でした。試合後、武道館の畳の真ん中で一礼し、亡き母に勝利の報告をしました。その後、無観客のスタンドに深々と礼をした場面も印象的です。

ガッツポーズをして感情をあらわにするのでもなく、笑顔を振りまくのでもなく、その無駄のない所作にすべての感謝の心が詰まっているようでした。まるでスポーツの美しさを映し出しているかのようでした。

ようやく「自分事」になったオリンピック

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東京オリンピック・パラリンピックは、コロナ禍で史上初の延期となり、賛否両論がある中で史上初の無観客開催となりました。

紆余曲折を経て2021年7月23日に開会式を迎え、1,824機のドローンが東京の空を舞い、市松模様のエンブレムが地球儀に形を変えた演出には、多くの人が驚いたのではないでしょうか。

しかしこの開会式をめぐっても、関係者の人権意識が問われる出来事がたくさん起きてしまったことも否めません。

東京オリンピック・パラリンピック開催の原点は2013年9月。ブエノスアイレスで開かれた国際オリンピック委員会総会で、候補都市のマドリッド、イスタンブール、東京が自国開催の最終アピールをしたことが懐かしくも感じます。

滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」や安倍前首相が「原発はアンダーコントロールされている」と述べたプレゼンテーションが大きく報道で取り上げられました。しかし、個人的に東京招致成功の決定的な要員は、高円宮久子妃のスピーチであったと感じています。

そして今年に入り、都庁のカウントダウンが進みゆく中で、大会が近づいても世界的に広がった感染は収束せず、国内では先進国に比べワクチン接種のスタートも遅れました。開催の是非、観客の人数をめぐる話題は、連日、メディアでも取り上げられました。

ここまで注目されたオリンピックは今までになかったと思います。だからこそ特に日本国民がやっと「自分事」としてオリンピックを考えられるようになった気がします。

「オリンピック好き」な日本人の性格

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日本人は、なぜそこまでオリンピックに熱狂するのでしょうか?

その理由は、1964年、東洋の魔女(女子バレーボール)などを生み出した前回の東京オリンピックがあったからでしょう。

日本は敗戦から19年、そして戦後の肩身の狭い状況を耐え抜き開催されたオリンピックだったからこそ、日本国民が老若男女問わず、あれほど熱狂したことはなかったと言わしめる大会になりました。

その時代に私は生まれていないので、熱狂の渦に浸ることができなかったことが残念でほかなりません。しかし、日本人の「オリンピック好き」な性格については、オリンピックの歴史を紐解くと異なる側面を垣間見ることができます。

実は日本人は「オリンピックのメダル好き」

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日本人は「オリンピック好き」よりも「オリンピックのメダル好き」という言葉の方が、私にはよりしっくりきます。

たとえば歴史を遡ると、初めて日本人女性としてオリンピックに出場し銀メダルを獲得した人見絹枝さん(1928年アムステルダム大会800m走)や、初の金メダリストである前畑秀子さん(1936年ベルリン大会平泳ぎ)等の女性アスリートがいます。

当時は、女性がスポーツをすることへの批判は強く、「女性選手のための派遣費用はない」「結婚・出産の邪魔になる」などと言われていました。ところが、彼女たちがメダルを獲得したとたん、世間の風当たりは良くなりました。

「メダル獲得が正義」という風潮が、これらの歴史のなかで少しずつ根付いたことは間違いありません。

「排除」されることは、絶対にあってはいけない

少し違った側面からも考えてみます。オリンピック・パラリンピックは、他の競技大会とは性格が異なります。

世界選手権やワールドカップは、世界で一番は誰かを決める場所ですが、オリンピック・パラリンピックは、人々が異なる意見を持ち寄り、ともに考えながら、社会の未来を作ろうというムーブメントの一部です。

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そしてオリンピック憲章は「いかなる種類の差別も受けることなく」と、明確に定めています。

例えば、今回五輪史上初めて、トランスジェンダーを公表したアスリートが出場した大会でもありました。トランスジェンダー選手の出場に異論はあるかもしれません。しかし、その異論が、差別や偏見を助長するようなものになることは許されません。

「不公平だ」と言う前に知るべきこと

難しい問題ですが、まずは「トランス女性を女性と認識しないことは人権問題だ」という人権感覚から浸透させていかなければなりません。

そして重要なのは、私たちは様々な不公平がある中でスポーツをやっているにも関わらず、それが公平であるかのように考える癖がついてしまっていることです。

例えば、バスケットボールやバレーボールでは、背が高いほうが有利です。しかし同じ性別のカテゴリーで競技する場合に「背が高いヨーロッパの人たちがずるい」とは言いません。

経済格差もあります。開発途上国では、施設や器具が不足している場合もみられます。一方、経済的に発展している国や地域では、様々な技術開発に莫大な費用を投資し、軽量のユニフォームや0.01秒を早く走るためのスパイクが作られます。しかし、それに対して「恵まれていてずるい」と問題になることはありません。

つまり、私たちは多くの不公平に目をつぶっています。その中で、なぜか性別にだけはものすごくこだわる、ということの意味を考える必要があると思います。

国別対抗戦になってしまったオリンピック・パラリンピック

話は戻りますが、オリンピック・パラリンピックはメダル争いをするための、単なるスポーツ大会ではありません。その違いを知ることによって、今回の大会を未来に活かすことができるかもしれません。

私たちが目にする日本のオリンピック・パラリンピック報道の多くが、日本人選手の活躍、特にメダルを獲得したかどうかを報じています。また、国別のメダル獲得ランキングは、より多くの読者や視聴者をひきつける重要なコンテンツだとされています。

東京オリンピックでは過去最多の27個の金メダル(メダル総数は58個)を獲得しており、その報道が大きくされているのもまた事実です。そのため、オリンピック・パラリンピックは他のスポーツ大会と異なり、「国別の対抗戦」だという印象があるかもしれません。

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ところが、オリンピック憲章には「大会は個人またはチーム間の競技であり、国家間の競技ではない」と定められています。

この考え方は、19世紀末にオリンピック・ムーブメントを創始したピエール・ド・クーベルタンが強く主張し、現在まで引き継がれています。なぜクーベルタンは、このような主張をしたのでしょうか。

オリンピックは人や社会が力と欲望のコントロールを学ぶための場所

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クーベルタンの少年時代は、ヨーロッパは戦争の最中でした。そのため彼は、「国の違い、労働者や人種に対する差別を乗り越えて、国同士が争わない世界を目指さなければならない」と強く願っていました。

では、どうすればよいのか…

「力と欲望のコントロールを学ぶための教育が人間には必要」

それが彼の答えでした。

この考えにとって、スポーツは最良のツールでした。私も世界中で実感してきましたが、スポーツには大きな可能性があり、それは時には言語の壁をも越えてしまいます。

そこで彼は、国という枠を超えてスポーツを通じた教育のムーブメントを起こそうと思い立ちました。4年に一度、大会を開催すれば、そこで教育の目的を人々が思い出し、互いを知り、讃え合うための場所になるだろう…。これがクーベルタンの発想です。

オリンピックは、スポーツの勝敗を競うかたちをとりながら、日々の教育的なムーブメントの成果と課題を確認する場である、ということに特徴があります。

「勝ちたい」という人間の最も単純な欲望を満たそうとする活動の中で、人間は、力と欲望のコントロールに成功することも、失敗することもある。そのすべてが大会には映し出される、というわけです。

オリンピックは「世界を映す鏡」だと言われています。今、オリンピックは私たちにとって身近な存在になっています。いつもより、様々な角度から大会での出来事を知る機会にもなります。

多様な人々が集まる、期間限定の「地球規模の村」

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いま私たちの目の前で開催されている東京オリンピックは、世界のどんな理想と現実を映し出しているのでしょうか。

コロナ禍の大会でなければ、祝祭、勝利といった言葉で覆われ、気づかないままに終わってしまったこともあったと思います。

オリンピック・パラリンピックは、他のスポーツ大会と異なりセレモニーの要素が多い上、何種類もの競技を運営し選手の生活の管理、文化的な差異から生じるトラブルの解決をしていかなければなりません。

複雑な運営に加えて、コロナ禍という想定外の出来事があったために、「組織のあり方が問われ」、それは過去の大会以上に必要なことだと考えられました。

私はオリンピックの理想は、手を伸ばすと届きそうなのにつかむことができない、まるで雲のような存在だと考えています。

オリンピックは、祝祭やスポーツの発展の歴史というよりは、理想を前に失敗と挫折を繰り返す人間社会の歴史といってもよいかもしれません。世界中から選手が集まり、それぞれが目指すものに向かって懸命に取り組む場所があるからこそ、私たちの心に残ります。

紛争や差別をなくそうという思いを共有する人々が集まり、わずか2週間とはいえ、平和な「村」が仮設されるような試みは、オリンピック・パラリンピックをおいて他にはありません。スポーツだから実現できていることではないでしょうか。

東京オリンピックの場合、33競技339種目に選手が集まりました。取り組む競技が違えば、選手の個性も違った傾向を示します。多様な人々が集まるための仕組みが備わっている、という点も他の一般のスポーツ大会との大きな違いです。

オリンピックのあるべき姿

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「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」これが、クーベルタンが提唱したオリンピックのあるべき姿(オリンピズム)です。

2つの世界大戦による中断や、東西冷戦によるボイコット問題など、オリンピックはいつも時代時代の社会情勢に左右され、そのたびに「あるべき姿」が問い直されてきました。

紆余曲折を経てなお、オリンピックは継続しています。それは、クーベルタンが土台を築いた「オリンピズム」という理想が、世代や国境を越えて共感を呼んでいるからでしょう。

「オリンピックの理想」は「世界の理想」

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「IOCが放送権料などで巨額の富を得ている」と考えている人は多いと思います。確かにオリンピックにはビジネスの側面もあります。しかしこのような文面からは理解しづらいですが、IOCの収入の9割は、途上国に対するスポーツ支援やスポーツ界が抱える課題の解決に使われています

経済的に豊かな国も、貧しい国も、あるいはやむを得ず祖国を離れた難民の代表選手も、共に「ひとときの地球村」でスポーツをすることができるのは、この再配分の仕組み「オリンピック・ソリダリティ」があるからです。

東京オリンピックでは205の国と地域から選手が集まることができました。こうした仕組みは、私たちの社会で人権の拡大や格差の解消にも応用できるかもしれません。

今回みなさんが目にしたように、オリンピックはたくさんの課題を抱えています。その多くは、私たちの社会が抱える課題と重なっています。私たちは試されているのではないでしょうか。「あなたは、オリンピックをどのように使いますか」と。

晩年のクーベルタンは「100年後に生まれ変わったら、自らオリンピックを破壊するかもしれない」と語ったことが知られています。この意味をみなさんはどのように捉えますか?

スポーツに縁のない人であっても、「オリンピックの理想」に向かって、アクションを起こすことはできます。明日の自分を少しでも前に進めようという思いを持ち続ける人は、誰もがオリンピアンになれるのだと考えています。オリンピアンが一人でも増えることで、社会が変わっていくと思います。

東京オリンピックは、今までのオリンピックよりも大きな注目を集めました。開催することに反対の意見をもっている方も多かったと思いますが、この大会がオリンピックの理想、つまり世界の理想を見つめ直し考える、4年に一度のきっかけになって欲しいと切に願います。

8月24日から開催される東京パラリンピックにも是非注目をしてみてください。パラリンピックは、様々な障がいのあるアスリートたちが、公平に個性や能力を発揮する世界最高峰の競技大会です。

「できないこと」に着目するのではなく、「どうしたらできるのか」の視点をもって社会の中にある障壁を減らしていくことの必要性や、発想の転換が必要であることにも気づかされます。

「東京オリンピック」という一つの大会で切り離すのではなく、オリンピックは、「私たちの社会が抱える課題」を映し出す鏡です。

 

ピースボートスタッフ 野々村修平