77年目の夏に「平和」を考える~旅が平和を作り、平和が旅を可能にする~

こんにちは、ピースボートセンターおおさかの野々村修平です

コロナウイルスが流行し始めた頃から、気がつくと3年近くの歳月が経過しようとしています。

この未曾有の感染症が、人々から「旅」を奪いました。

旅は世界との「繋がり」を強くします。今まで築き上げた世界中の繋がりが、この間少しずつ離れてきているという危惧があります。

地球を巡ると強く感じますが、世界中の人が、国籍・文化・宗教などを超えて理解し尊重できる瞬間は電話やオンライン上での会話だけでは成り立ちません。

たとえ言葉が通じなくても、生活を共にし、同じ時間を共有することは相互理解をする上で欠かすことができません。

この繋がりこそが平和を構築する土台だと思っています。

「旅が平和を作り、平和が旅を可能にする」

このピースボートが掲げるテーマとともに、今日は平和について改めて考えていきます。

原子爆弾投下から77年目の夏

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8 月、広島と長崎に原子爆弾が投下されたことが思い出される時期です。

あれから今年で77年が経過します。

1945年8月6日午前8時15分、人類史上初めて、広島に原子爆弾が投下されました。

その後、長崎にも同年8月9日午前11時2分、原子爆弾が投下されました。

私は出張で広島や長崎を訪れる機会があります。もちろん今では街に人が溢れ、当時の惨劇の様子は日常生活をする上では感じられません。

当時の広島・長崎に住んでいた人たちも、きっと私と同じように夏空を見上げ、日常の一端を歩んでいたんだと感じます。

他方、今この瞬間もロシアとウクライナの戦争が続いています。そんな報道を見るたびに胸が張り裂けそうな想いです。

広島・長崎が受けた惨劇が繰り返されるかもしれないという心配もあります。

戦争が長期化する中で、ロシアは核兵器使用の可能性を示唆し、一層の緊張状態が続いています。

日本は唯一の戦争被爆国として、他人事ではなく自分の意見を持って核兵器に反対を表明する責務があるのではないでしょうか。

人は間違えたり過ちを犯すものです。完璧は存在しません。

しかし、戦争という過ちは決して繰り返してはなりません。

戦争は多くの人が涙を流す他に何も残りません。悲しみだけが繰り返されます。

核兵器が再び使われないために

広島・長崎の経験があるにも関わらず、日本政府は未だ核兵器禁止条約に署名をしていません。

核兵器禁止条約とは、その言葉通り「核兵器を禁止する」という国連が定めた条約で、2022年8月8日現在、86ヵ国が署名し、そのうち66ヵ国が批准しています。

日本政府は、米国の核の傘に守られているという態度です。

核の傘は広義に考えた場合、軍事能力が高い米国が守ってくれるということに安心を覚えるかもしれません。

しかし核兵器が世の中に1つでも存在する限り、機械の誤作動はもちろん、保有国が戦争という極地に陥り核のスイッチを押すことさえ考えられます。

今のロシアがまさにその状況です。

核兵器が存在する限り、私たちの目の前に核兵器が降り注ぐ可能性が0%になることは絶対ありません。

だからこそ、核兵器を禁止することが重要です。

核兵器禁止条約とICAN

ピースボートも関わっているICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)は、核兵器を禁止し廃絶するために活動する世界のNGOの連合体です。

2007年にウィーンで発足しました。2022年8月8日現在、107カ国・635のパートナー団体を持ちます。

ピースボートはICANの国際運営委員の1つとして、船旅を通して核兵器廃絶の取り組みを世界的に進めています。

ICANは、有志国政府と連携して国際会議へのNGOの参加を促したり、核兵器禁止条約の成立を目指してメディアやネットを使ったキャンペーンを展開してきました。

このような活動が評価され、2017年10月6日、ノルウェー・ノーベル委員会は2017年のノーベル平和賞をICANに授与すると発表しました。

授賞理由は、「核兵器の使用がもたらす破滅的な人道上の結末への注目を集め、核兵器を条約によって禁止するための革新的な努力をしてきたこと」が挙げられています。

<ノーベル平和賞の賞状>

ICANのベアトリス・フィン事務局長が受章スピーチで述べた言葉が強く印象に残っています。

『核兵器が終わりを迎える前に、もう一度使われてしまえば、世界が終わってしまう。その前に核兵器をなくさなければならない。』

ピースボート おりづるプロジェクトの「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」

2008年のピースボートの船旅では、約100人の被爆者とともに証言をしながら世界を巡りました。

世界の各所では、原爆が投下された「ヒロシマ」「ナガサキ」という地名は聞いたことがあるものの、原爆の実態は深くは理解していません。

そんな中で、原爆投下を生き抜いた被爆者の生の言葉は人々の心を動かします。

このような機会は一生に一度だろうと思うのでしょうか、証言をする港には毎回多くの人が集まり熱心に話を聞いてくれました。

このような草の根活動を私たちは地球一周の船旅を通して継続し、これまでに180名の被爆者が参加しました。

私と核兵器廃絶との関わり

私自身、ピースボートスタッフでありICAN国際運営委員の川崎哲のもと勉強しており、国内様々な場所で核兵器をテーマにした講演会を行う機会をもらっています。

講演という形で多数の前で話すということは、改めて核兵器の存在が絶対悪であることを共有することに加え、自分自身の知識も最新にアップデートする機会となります。

私は広島出身であったり、家族が被爆者でも被爆二世三世だということでもありません。

ではなぜ、このようなテーマに取り組む動機を持つのか、それは旅をする中で命の尊さを感じたからです。

ピースボートの船旅ではないのですが、私は海外でバックパック旅をしていた時、銃撃を受けた経験があります。

空港までの道をハイヤーを借りて走らせていた夜、左右の茂みから黒頭巾を被った数人が突如現れ、私が乗っていた車を何度も狙撃しました。

フロントガラスからその光景を唖然と見つめる以外何もできませんでした。動くことすらできませんでした。

ドライバーもこのようなことは初めてだ、と話していたことを今でも覚えています。後で見てみると、フロントのタイヤには弾痕の跡が残っており、左右ともにパンクしていました。

そんな状態の車でしたが、ドライバーは機転を効かせ、スピードは出ないもののそのままバックで逃げ切りました。その際、前方から走りながら追いかけてくる数人の姿が今でも脳裏に刻まれています。

結果として大事に至ることはありませんでした。

よくドラマなどで死の間際には走馬灯が見え、一瞬の時間が長く感じる。と聞きますが、 そんなことは一切ありませんでした。

人はこのような瞬間に陥ると、何も頭には浮かんでこないことを知りました。大切なことも、今日の思い出も、後悔だって、何にも思い浮かびませんでした。

そして無事に生きていることを確認した瞬間、まず命の大切さと、そして、自分がやり遂げられなかった後悔が溢れてきました。

そのような経験もあり、 私は人一倍に命の尊さを知っています。だからこそ、命を一瞬にして奪い去る核兵器の存在にはやはり危機感を覚えます。

今、被爆者の声を聞く

「核兵器をなくすために何ができるのでしょうか?」

この回答はシンプルです。被爆者の話に耳を傾けてください。

原爆が投下された1945年から、今年2022年で77年が経ちます。もちろん原爆が落ちた日に生まれた子どもは被爆証言を語ることはできません。

しっかりと当時の記憶をもつ方は既に80才を越えているでしょう。あまりにも高齢になってしまうと、体力や健康上の理由で証言を語ることさえできなくなります。

今このブログをお読みいただいている皆さんは、被爆者の体験を直接聞くことができる人類最後の世代だと言えます。

10年後には、おそらく被爆経験者の体験を聞くことはできません。しかし今ならまだ間に合います。

核兵器が必要だと考える人もいらしゃるかもしれません。たとえそうであっても、核兵器の恐ろしさを生身で体験した被爆者の話を真剣に聞いてみてください。

自分自身の親や大切な人が目の前で亡くなってしまった被爆者の話に耳を傾けてください。そして、その言葉を素直に心で感じてみてください。

私たちは、この問題から目を背けてはいけません。

今はまだ、核兵器がこの世の中からなくなるというビジョンはありません。

しかし、この世の中に不可能はありません。人は空を飛びたいと夢を見て、飛行機を作りました。当時、誰1人として空を飛ぶことが実現するとは考えていなかった時代です。

しかし今、空を飛び自由に移動することを不可能だと考える人は誰1人として存在しません。

強い気持ちは、夢を当たりまえに変えてしまう力があります。

だからこそ、戦争のない平和な世の中がいつかきっと訪れると私は信じます。

広島出身の岸田首相には、核兵器禁止条約の締約国として新たな道を辿ることを切に願います。

 

ピースボート 野々村修平