あの日…
2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード(M)9.0の巨大地震が発生しました。
押し寄せた津波は、瞬く間に、堤防を乗り越え沿岸各地に甚大な被害をもたらしました。
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こんにちは。ピースボートセンターおおさかの野々村修平です。
この時期、町には制服を身にまとって花束や色紙を抱えた生徒たちをよく見ます。卒業式シーズンですね。
私は、2011年3月11日当時、高校を卒業したばかりでした。大学入学を控え、引越しの準備をしていたことをいまでも覚えています。
東日本大震災が関西にもたらした余震は、「ちょっと大きい地震だな」と感じる程度でした。
しかしその後、テレビ画面で見た震災の様子に驚愕することになります。同じ日本とは到底思えないような、東北の地に乗り上げた津波の姿が幾度となく繰り返されていました。
それから11年。
あれほど衝撃的だった東日本大震災の記憶も、日々の生活の中で、徐々に風化していくものです。
私自身もそのうちの1人でしょう。だからこそ、何か文章を書きながら、自分の中でもこの記憶を失わないようにしていきたいと思っています。
私と東日本大震災
私が東日本大震災と向き合ったきっかけは、大学に入学してまもなくでした。
教員養成課程の大学に在籍していたこともあり、在学中に何か教育に生きるようなボランティア活動に携われたらなと考えていました。
その時友人から誘われたのが、「福島っ子キャンプ」というプロジェクトでした。
当時、福島県の一部には福島第一原発事故の影響から外で遊ぶことも容易ではないような地域がまだまだ残っており、そのような地域では放射線を防ぐために真夏だろうと長袖や長ズボンを履かなければいけませんでした。
子どもたち、特に小中学生は活発に屋外で駆け回る年代でしょう。
福島っ子キャンプは、そのような福島県に住む子どもたちを愛知県春日井市に拠点を置く市民団体が長期休みの期間で受け入れをするものでした。
子どもたちと大学生ボランティアが一緒に衣食住をともに過ごしました。地域住民と連携しながらさまざまなイベントを企画し、観光地を巡ったり、一緒に料理をして食べて、そして子どもたちと夜になるまでめいっぱい喋っていたらあっという間に1日が過ぎてしまいます。
もちろん、子どもたちは始めのうちは慣れない地域や大人にあまり心を開いてくれません。しかし、キャンプが終盤に差し掛かる頃には、子どもたちは学生に引っ付いて離れなくなってきます。
この活動は2011年の震災後の夏休みから始まり、夏冬春と年に3回のペースを欠かさず子どもたちを受け入れ続け、2017年に開催したウインターキャンプでは、20回目の節目を迎えました。
今思い出すと、私がボランティア活動と向き合い、そして今もなおNGO職員として国内外さまざまなボランティア活動に従事するようになったことは、この頃の経験が大きく左右していると思います。
ボランティア活動は、何にも変え難い人の心に触れられる時間を作り出します。それらは、その後の人生に大きな役割を果たすとも思っています。
私の大学時代は、福島の子どもたちと一緒に過ごす日々を通して、震災の被害を受けたたくさんの方々と出会い、被災された方々の話を聞くことができる貴重な機会となりました。
自分の目で見た、今もなお残る震災の記憶
数年前の3.11の時期に、ちょうどタイミングがあって福島駅に足を伸ばしたことがあります。
駅前では、東日本大震災の犠牲者へ哀悼の誠を捧げ、復興への想いを願い、キャンドルナイトが実施されていました。
これらのキャンドルには、福島各地の方々と子どもたちの「夢」や「メッセージ」が描かれていました。
キャンドルの炎がゆっくりと輝く福島駅の前、そこには地元住民でしょうか、祈るようにずっと目を瞑っている人が多く見えました。
町の様子を見ていると、東北の復興は目に見えるように進んできています。しかしながら復興と共に、私たちの記憶はどんどんと薄らいでいることにも気が付きます。
私たちにできることは、この記憶を後世に語り継いでいくことに他なりません。
災害に強い街づくりを考える
2019年頃から徐々に広がりを見せ始めた新型コロナウイルス感染症の世界的な流行は、「都市集中型」社会の弱さを世界の人々に気づかせるきっかけともなりました。
日本は「東京一極集中」が進んでいることが問題視されています。
東京は日本の首都であり、政治・経済の中心地です。オフィスビルが立ち並び、お店や病院が軒を連ね、便利な生活を送ることができます。そのため東京とその周辺に住む人が増え続け、都市に人口が集中していきます。
一方で、地方での過疎化は深刻です。東京に人が流れることから、どんどんと進行していきます。
都市の利便性は大きいですが、このように社会を支えるさまざまな機能が集まった都市が、災害や紛争によって大きな被害を受けたら、どうなってしまうのでしょうか?
もし、東京で首都直下地震が発生したら、日本の政治経済がすべてストップしてしまうのではないか、という見方があります。
大きな災害が起きて、政治も経済も人口も集中している都市が機能しなくなってしまえば、国そのものが機能しなくなるという事態に陥る可能性があります。
これからは、地方に都市の機能や人口を分散させる「地方分散」や、災害に強い街づくりの必要性がますます高くなっていくと考えられます。
いま身近に起こる、危機
今、世界の環境は大きく変わってきています。日々悪化していると思います。多くの災害が世界各地で起こっています。
内閣府の防災情報ページを見ると、日本国内でも、ここ10年間で自然災害の数が増えていることが分かります。この大きな要因として、温暖化や気候変動の問題も軽視できません。
世界では、日本のように四季に恵まれた国が存在する一方、赤道直下には常夏の地域があったり、極地のような一年中氷が溶けない地域なども存在します。
地域ごとの1年の天気、日照時間、降水量、気温、風などは、ある程度パターンが決まっています。これらのパターンに合わせてそこに住む人々の暮らしも決まっていきます。
この点は、船で地球一周をする時にとても実感することができます。
例えば8月に日本を出航する西回りの夏クルーズは、出航の際はまだ猛暑ですが、地中海及びヨーロッパに到着する9〜10月は真冬の寒さが襲いかかってきます。
また北極圏の入口となる一定の緯度(北緯66度33分)を超えて、更に北極点(北緯90度)に近づくにつれて気温は氷点下を下回ります。北極圏ではこの時期、エメラルドグリーンの美しいオーロラを眺めることができます。
そして大西洋を横断しアメリカ大陸を南下していくと、次は急に厳しい暑さが舞い戻ってきます。
カリブの海と太平洋を結ぶパナマ運河を渡り日本に向かって北上していきます。すると海には寒流が流れこみ、日本には厳しい冬の時期が訪れます。
地球とは本当に面白いものでさまざまな表情に富んでいることに改めて気づかされます。
話を戻すと、地球温暖化により地球の平均気温が上ることで、さきほどのパターンが崩れていきます。
それらの影響として、農作物が育ちにくくなり、台風や豪雨によって大きな被害が出たり、異常な高温が続いて山火事や干ばつが起こったりといった問題が、世界各地で後を絶ちません。
2021年7月3日の昼前、梅雨前線に伴う大雨により静岡県熱海市伊豆山地区で大規模な土石流が発生し、死者・行方不明者27人に上る土砂災害となったことも記憶に新しいかもしれません。
同年3月は、北~西日本で統計開始以来最も高温となりました。異例の3月と言われ、桜の開花・満開は史上最早となりました。
私が最近衝撃を受けた災害は、2019年末からオーストラリアで起きた大規模な森林火災です。
シドニー大学の生態学者は、これまでに約4億8,000万の哺乳類、鳥類、爬虫類が死んだと推定しています。火災が起こった森林はコアラの生息地として知られており、ニューサウスウェールズ州では最大8,000頭のコアラが命を失いました。。
このように、気候変動による大規模な自然災害や異常気象が今、目の前で起こっています。
これからの未来を担うみなさんへ
日々、世界は目まぐるしく移り変わっていきます。
災害大国日本では、このような震災や自然災害が起こるたびに、自分自身の命の大切さと直面します。
このような災害が発生した際に、特に重要になってくることが、「自助と共助」だと思っています。
まずは自分自身の身を守ること。そして、自分自身や家族の無事が確保されてはじめて、身の回りの人を助けることができます。
自助があってこそ共助が成り立つ、ということを忘れてはいけません。
災害が起きてからでは手遅れです。一人ひとりが日々意識をし、事前の災害への知識をもつことで、自然災害による被害を最小限に抑え、不測の事態にも備えることが可能となります。
「自分になにができるのか、なにをしておくべきか」
この機会に改めて考えてみてください。
災害だけでなく、いまもなお東欧諸国では戦争の緊張状態が続いており、報道番組ではウクライナに侵攻するロシア兵の姿が毎日のように映し出されています。
原子力発電所を攻撃するロシア兵の姿も取り沙汰されていました。
そんな彼らも、ウクライナのチェルノブイリや福島第一原発が最悪の事態を迎えたことで、どれだけの猛威を振るったのか知らないわけではないでしょう。
原子力発電所から放射性物質が漏れることによって、どのくらいの被害がでるのか。そして、ロシアが核兵器を使用するともなれば、広島に落とされた核の被害がまた繰り返されることになります。
そしてウクライナでは今も多くの人が犠牲となり命を落としています。
この数週間は、なんとも言えないわだかまりが自分の中を渦巻いています。
私たちは、明日も元気に日常を過ごしているのかを知ることはできません。
かつてマハトマ・ガンジーはこのように言いました。
「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。」
3.11の経験を振り返り、自分の命がどれほど尊いのかを考え、より強く生き抜くこと。そのような想いを、私は大切にしていきたいと思います。
そしてなによりも世界が平和であり続けることを願ってやみません。
ピースボート 野々村修平