二度と過ちを犯さないために加害の歴史と向き合うドイツの試み 後編

負の世界遺産「アウシュヴィッツ強制収容所」をおとずれるピースボートのツアーに参加して平和について考えました。

こんにちは。ピースボートスタッフの村上佑理です。前回に引き続き、アウシュヴィッツ強制収容所をおとずれるツアーで、私が経験したこと、考えたことをお話します。

まだ前編をご覧になっていない場合はこちらからどうぞ。

ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺の歴史を学ぶスタディーツアー

アウシュヴィッツ第1収容所

アウシュヴィッツは第二次世界大戦時、ナチスドイツによるユダヤ人絶滅政策で最大の犠牲者を出したポーランドにある強制収容所です。一度収容されると生きて帰れないと恐れられたことから、その名を絶滅収容所とも呼ばれていました。

強制収容所の見学に際しては、現地ガイドの中谷剛さんに案内をしていただきました。中谷さんは日本人で唯一アウシュヴィッツの現地ガイドをしていらっしゃる方で、ピースボートのツアーがアウシュヴィッツを訪れるときは毎回受け入れをしていただいています。

アウシュビッツ収容所の門には「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」の標語が書かれています。実際には10人に1人も生還できなかったそうです。「B」の文字が上下反転していますが、これを作った被収容者のせめてもの抵抗の現れだと言われています。

緑の木々に囲まれたレンガ作りの建物が立ち並ぶ景色は、大学のキャンパスのようにもみえ、不覚にも綺麗だな……と感じてしまいました。かつてここにいた人たちは、この景色を、この空をどんな思いでみていたのだろう。

「安住の地を与える」と言われて来たユダヤ人は大抵、自分の全財産を持ってきました。生活用品や眼鏡、本、靴なども展示をされています。かばんには名前や住所が書いてありますが、持ち主の元に戻ることはありませんでした。

展示品の中に日本人にも馴染み深いニベアクリームがありました。これは遠い昔に遠い国で起きた出来事ではなく、私たちと同じようにニベアクリームを使っていた人々の身に、たった75年前に起こった出来事だという事実を思い知らされました。

中庭には、死の壁と呼ばれる銃殺刑が行われた場所があります。数多くの銃跡が残っていました。ここで処刑されたのは収容者たちのリーダー的存在が多かったそうです。

中谷さんのお話は、強制収容所での惨劇やホロコーストが起こった歴史的・社会的背景、現代社会との関連性など多方面に渡り、多くのことを考えさせられました。

中でも、特に強く感じたのは「傍観者であってはならない」ということ。当時ヒトラーに賛同を示していたのは国民の3割だったということです。でも、戦争で疲弊していく中で、長い物には巻かれろ、とりあえず多数派で、と多くの人が流された結果が独裁政治を生んでしまいました。ドイツには、当時もっとも民主的と言われたワイマール憲法がありながら、ヒトラーが強大な権力を手に入れる全権委任法が通ってしまいました。

この事は日本の社会にも通ずるものがあるのかもしれないと中谷さんはおっしゃっていました。政治に興味を示さず、選挙にも行かない、自分で判断したり考えることをしない多くの傍観者によって集団は動くし、気づいたら大変なことになっていたということもあり得ると感じました。

私たちがアウシュヴィッツ強制収容所を訪れたのは2018年6月14日。この日は奇しくも78年前にアウシュヴィッツ強制収容所がはじまった日でもありました。見学当日は記念式典が行われており、多くの人々が来場していました。

アウシュヴィッツ第2収容所ビルケナウ

前日に引き続き、中谷さんのガイドでビルケナウ強制収容所を見学しました。青空が晴れわたり、草木が生い茂る緑の大地。ビルケナウ強制収容所は「死」とはかけ離れた穏やかな場所に感じられました。そんなのどかな景色のなかで起こった惨劇の数々、その対照的な光景は人間の残虐性をより一層に引き立てているようでした。

アウシュビッツに来た人々は到着するとすぐ、ドイツ軍医により、働けるかどうかを判定する「選別」が行われました。約75%が働けないと判断され、そのままガス室に送られました。その際「シャワーを浴びる」と伝えられたそうですが、ほとんどの人はその後の自分の運命を悟っていたといわれています。

ガス室に送られる人々の中には子どもたちの姿もありました。ガス室に行く前に泣きわめく子どもたちはほとんどいなかったそうです。お母さんの様子をみて、子どもながらに察知し、お母さんを困らせてはいけないと思っていたんじゃないでしょうか、と言った中谷さんのお話しが、とても印象に残っています。

また処刑された元囚人たちを燃やすのも、囚人たちの仕事でした。彼らは、自分たちの未来もこうであることを知っていたはずです。一体どんな気持ちで、仲間の遺体を来る日も来る日も燃やし続けていたのでしょうか。

ビルケナウは、アウシュヴィッツと比べるとガス室などの施設がほぼ廃墟と化していたものの、囚人たちが寝ていた部屋だけは内部を見学することができました。窮屈で、不潔で人が暮らしていたとは思えないような空間でした。誰かがベッドの上に置いていったバラの花と、壁に描かれた子どもの絵が印象的で、なんだか涙が出そうになったのを覚えています。

二度と繰り返さないために歴史を学び考える

ツアーを終えてピースボートの船に戻った後、私たちは今回学んだことを多くの人と共有するために、船内で報告会と展示会を開催しました。ツアーを終えてからまだ日が浅く、気持ちの整理がついていないなか、ツアー参加者一人ひとりが懸命に「伝えること」に向き合いました。

報告会には200名もの方が来てくださいました。そのなかには話を聞いて涙を流してくださる方もいらっしゃっいました。

<ツアーに参加した仲間と報告会後に船のデッキで>

「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目である」これは、1985年当時のドイツ大統領ヴァイツゼッカー氏の言葉です。

終戦後、ドイツは過去に犯した過ちを受け止め、謝罪し、このようなことが二度と起こらないよう平和教育に努めています。こうした凄惨な歴史を教訓として後世まで保存しようとする取り組みから、アウシュヴィッツ及びビルケナウ強制収容所は世界で最初の「負の世界遺産」に登録されました。

スタディーツアー「負の世界遺産 アウシュヴィッツ強制収容所へ」は、アウシュヴィッツの歴史を過去の事実として学ぶだけでなく、自分自身や現代社会の在り方を見つめ直すきっかけとなりました。

「アウシュビッツを見学して、いまの世界を見つめ直してみてください。」日本人唯一の公式ガイド、中谷さんが言った言葉です。アウシュヴィッツでの惨劇を他人事ではなくいかに自分事として捉えるか、そしてこのようなことはどんな時代でも起こりうる可能性があることをしっかり心に留めて、私自身も行動していこうと感じました。

いつか一生のうちに訪れると決めていたアウシュヴィッツ強制収容所ですが、私はピースボートの旅で、この仲間と一緒に訪れることができて本当によかったと心底思います。

是非みなさんにも訪れてもらいたいです。

 

ピースボートスタッフ 村上佑理